『メビウスの輪』 vol.11 深作健次 第3話
~大声~
「サノバビッチ」
部屋に戻ると、小さい声でそう呟くのが聞こえた。
ふと走馬灯のように、あの日の記憶が蘇った。
「サノバビッチ!」
これは母の口癖だった。
何かあると、口から出ていた。
時に荒々しく、時に陽気に。
『ボサノバ』の陽気な響きに、『bitch!』という汚い言葉を組み合わせたこの言葉を、きっと使い方は間違えているだろうが、母は上手に使いこなしていた。
日に日にサノバビッチの回数は増え。1000サノバビッチを超えた辺りで母は居なくなった。
いつしか、サノバビッチは妹に受け継がれていた。
というよりは、妹が見よう見まねで始めたものだったが、いつしか口癖になっていた。
妹のサノバビッチの発音や雰囲気は、母にそっくりだった。
母が居なくなってしばらくして、妹のサノバビッチが上達し、5回に1回くらいしか噛まなくなった頃だろうか、叔父さんが頻繁に家に出入りするようになった。
厳密に言うと、叔父さんが頻繁に妹を連れ出すようになった。
叔父さんが祖父から酒蔵を完全に任されるようになった頃、酒蔵には『開かずの間』というのができた。
それまで、自由奔放・縦横無尽に酒蔵を走り回る事が許されていたのに、急に叔父さんは態度を変え、僕と弟は日中の限られた時間以外酒蔵に入るのを禁止した。妹だけは別だった。
今まで『愛され体質』で生きてきた僕が、人生で初めて差別を受け、自分以上に愛されている者の存在に気付いた瞬間だった。
僕は酒蔵の近くにある、神社の境内で泣いた。
後にも先にも、大声を上げて泣いたのは、この一度きりだ。
10歳の春だった。
次回
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~その渓流~
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